昭和54年12月26日  朝の御理解     大坪かよこ

御理解第6節
 目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。




 その神様が私共の上に、働きかけを下さろうとしておる。それを分かることが、悟りだと私は思います。
私どもが拝まして頂いておる神様は、それこそ、神の中を分けて通る、いわゆるここに充満しておられる。
その働きもまた充満しておる。
そういう神様の働きの中に、お生かしをま、頂いておるわけです。
最近言われます、今を喜べ、というような、心の状態は、そこのところがね、分かるだけけはなくて、その神様がどういう働きを私どもの上にしておって下さるかまた、その神様の願いは、私共にどうかけられておるかということが、分からないと、ただ、神の中を分けて通っておるんだと、ね、もうそれこそ、神様の働きの中にある私共であるということが、頭で分かっただけではいけない、その神様が、どういう神様なのか、どう私共に願いをかけておられるのかということが、分かる。
ね、それを私は、信心の悟りというのはそれだと思う。
ね、翻然として分かる。
そこで、その神様をその翻然として分からして頂くために、様々な修行があるわけでございます。
ね、それにはやはり、ここにもありますように、畑で肥えをかけておろうが、というね、その神様のご精神である、これも最近のみ教えの中にあります、清濁一如といったようなね、ようなものが段々分かってくる。
それでも私共の観念の中に、やはり清いものは清いもの、汚い物は汚いものと、いうように思いますので、そこから、生まれてくる情感というものが、ね、天地の親神様と私共との係わり合いとを、教祖金光大神が、ま、詳らかに教えて下さる中に、ま、その畑で肥えをかけておろうがと、こう、神の中を分けて通りよるようなもんだと。
特に人間私どもとしては、そこに汚いものは汚いもの、綺麗もんは綺麗もんというよな、ま、観念がございますから、ね、そこで、あの、久富繁雄さんじゃ無いですけれども、もう今頃肥をかけるといったようなことを、お百姓さんたちも段々なくなったんだと思うんですけれども、ま、その当時、言うておられました。
私は、このみ教えを頂いて、それでもやはり、畑に出らして頂くと、ね、肥をかけるときには、神様ちょっとよけておって下さい、ちょっとよけとって下さい、というような心持ちで、肥をかけるというふうに、言うておられました。
ほんとに野菜が物を言いかけてくるのが感じられるような、ま、天地とのつながりを感じながらも、やはり汚いものんときには汚い物としてのその観念がね、やはり、神様、しばらくよけておって下さいと、そこから、もうこれは誰しもが味わうことのできない情感というものが、天地と通うてくるんです。
ね、当たり前といったような中には、神様を頂くことはできません。
ね、私どもが今日こうやって、生きていくためには、明日、いろんな生きていく条件というものがたろわなければできんけれども、その条件の一つ一つが、ね、私のような者に与えて下さる、ね、それはもう当然のことだけれども、そういう頂き方の中から、ね、神様を、いわゆる情感の上でも、頂きとめることが、はあ、なるほど、神様じゃなー、と、低い所、低い所へと水は、こう押してくるように、おかげもお恵みも、やはり私どもが、いわゆる障子一重がままならぬま、人の身である、もう、いうならば屑の子の我である、といったようなところに立って、ね、の神様。
私の様なものにというそこからの、いうなら、なるほど神様じゃなあー、なるほど神様はここに充満してある、私共と、も、一緒にあるというその実感というものが頂けてくるようになる。
そういう信心を教祖様は、いろんな角度から、ご自身が通い、またはそこを辿っておられる。
そして、ギリギリのところは、清濁一如といったような大精神が生まれてきたんだとこう思うんです。
ね、そういう神様を頂くようにならなければ、確信の生活、安心の生活は生まれません。
昨日は、幹部研修会でしたが、なかで、ある方が発表しておられました。
ね、嫁との関係のこと、嫁を、嫁が言うことを聞かん、自分のいうことを聞かんとこう思っておったけれども、最近はその嫁の言うことを聞こうという気になったら、こんなに楽なことはありません、という発表をしとられました。
ね、親が嫁をいうなら、自分の思うようにしたいと思う心を捨てて、嫁の思うようになろう、という気になったら、楽になった。
結果はどういうことかというと、もういき、それこそ行き届いた嫁として、有り難いという答えだけしか出てこない。
そういうようなたとえば、思い方というものがです、どうぞ嫁ごがいうことを聞きますように、息子が言うこと聞きますように、親の言うことを聞きますように、という、いうなら、願いの時には、中々、いわば、不平不満が出るような、または、悲しい思いをするようなことにもあったけれども、その嫁の言うことを聞こうという気になったら、楽になりました、だけではない、それこそ嫁が痒いところに手が届くように、言うことを聞いてくれるようになったという意味の発表をしておられました。
一口でしたけれど素晴らしいことだと、それはね、神様はここにありという実感、神様の働きは信ずれば成りであります。
信ずるからこそ、それができるのです。
昨日、私はお道の教報が参りました。毎月送ってまいります。
それ海外布教の欄が出ておりましたから、ちがわん、今度の南米布教のことを、やらも出てはおらんだろうかと思うて、見ておりましたら、その今度、ハワイ、アメリカの方へ、沢山の助成金が出る様になりました、なっとります。
ね、あちらに大きな教会もありましょうけれども、ま、立ち行かんといったような教会もある、また海外布教するためには、資金も入ろうというので、本部のほうからそういうお金がたくさんでるようになっとります。
ね、それこそ、今度合楽から出ました末永先生一家のことなどに、ところにはいわゆる、行ったばかりで、それこそ大変だろうから、なら助成金が出るのが、ほんというたら、普通じゃ無いだろうかと私は思うんですけれども、南米のほうには助成金が出るとは書いてなかった。
一ページはぐらせて頂いたら、その向こうに書いてあるのが、今度永住権を取って、末永とも書いてないけども、一家五人であちらのほうへ、永住することがでけて、ビリグイ教会が立つようになったという記事は出ておりました。
けれども、ビリグイ、その南米のほうにも助成金が出るとは書いてなかった。
もうほんとに今から開拓して行かんならんという所に、かえってでらなきゃならんのじゃないだろうかと、普通では、だったら思うのですけれど、私はそれを見て非常に有難かったです。
今、本気で力を受けなければならない、今本気で修行に取り組んでおるときに、助成金どんが出たなら、私はほんとにかえって困るとこう思うた。
それはどういうことでしょうかね。
神様があると信ずる、神様の働きを信じておるから、そういう思い方ができる。
本部は、たとえのほうでは、片手落ちだと、合楽だから、出たとじゃから、と言うて、ま、軽う見取るとか、といったような感情でも起るのが普通じゃ無いかと思うんですけれども、ところが、いうなら、神の中を分けて通りおるようなものじゃという、それを、実感だけではない、その働きを私が知っておるから、もしそういうものが出るなら、むしろ押し返したいような心、ね、出てないほうが有り難いんだということ、皆さんのおかげの中にでも、そうです。
あの人この人というて、もう頼る人が無くなった、というときほど私はだから、有り難いと分かるような信心にならなければ、ね、そこにある人、あること、と自分に都合の良いことがあったら、あの人のおかげじゃった、はー、こりゃふが良かった、おかげとは言いながら、それをそういうふうに、頂けないような、いわば感じが致します。
もう、全く神様のおかげで開けたというおかげを頂くためにはです、ね、私がそれを見ながら感じたように、はー良かったブラジルのほうには、助成金が出るとは書いてないから、もうほんとかえっておかげ頂いたというような心というものは、神様を信じておる、またその働きを知っておるから、神の中を分けておる、たとえそれが南米のちであろうが、どんな地の果てにおろうが、そこもやはり神様の懐である、そして同じ働きがあっておるんだと、信じておるから、そういう思い方ができるんじゃないかと、思うです。
ただ、神の中を分けて通り様な日々であるということを、知っておるだけではいけません。
それが知っておるではなくて、感じる日々じゃなからなければいけません。
ね、いわゆる、フィーリングです、その神様を心全体に、体全体に感じれれる信心、ね、それにはね、やはり私どもの思いというものをです、ね、神様に対する思いというものを、も少し、いわば、情念の上にも頂かしてもらうけいこがいるんじゃないでしょうか。
こんな時に神様、たとえば苦しいときには、ね、神様は、より私よりも苦しんでおられるんだというような、み教えがありますよね。
四神様のみ教えの中に、いろんな願い事を泣いて頼む氏子はあるけれども、ね、神様おかげで信心がでけます、神様私の苦しみ以上に、神様が、に、苦しんでくださってあるんだと思うたら、ね、神様相すみません、済みませんの以外にないはないというような、そういう一つの情感的な神様との交流がです、でけて来る。
ね、ご地内をみだりに穢すなとこう言われるけれども、もう畑で肥をかけるときだけは、こりゃ当然のこと、当たり前のこと、からは生まれてはこない。
ね、畑に肥をかけるのは、もう、百姓としては当たり前の事なんだけれども、ね、神様ちっとよけといてください、ちょっとよけとって下さいと、いうそういう、私は、あの心がけというかそういう情感というものが、ね、いよいよ神様と深く交流でけれる、それこそ、野菜が物言いかけてくれる実感が、畑の真ん中で。
大阪講演のときに、久富繁雄さんのことを、三宅先生が、うちにはこんな信者がおらん、というふうに、いうておられました。
それはどういうことからかというと、それこそあのかんらん畑の真ん中で、あなたが一番一日のうちで有り難いときはいつですか、どういうときですかという質問に対して、その、キャベツですね、キャベツ畑、もう何段という、いっぱいこうでけておる、その真ん中で、じっと座って御祈念をする、そのひと時が、一番私の有り難いときだという意味のことを話しております。
これは繁雄さんからその話を聞いておりましたから、その話をさせて頂いたら、もうえらいそのことに対して感心されました。
お互いがね、ほんとにいっぱいの仕事を持っておるその仕事の中におる時にです、そん時が一番私の有り難いときだと、ああ、またこればせんならん、これだけんこつばまた、というのじゃなくて、そのこれだけのことの中にです、おる時が一番有り難いときだと、もうそれこそ沢山のキャベツが、もうそのあの、ま、おっちゃっま、有り難うございますと言うておるよなものがここに聞こえるような情感です。
ね、それには、このくらいなことは当たり前じゃ無い、ほんとに神様ちょっとよけといて下さい、と言うて、いわば肥をかけるような心持ち、それが信心の私は精進だとおもいます。
ね、そこから神様を感じられる、どんなに貧乏くじを引くようなことであっても、むしろその貧乏くじが有り難いんだと分かった時に、神様は貧乏くじが宝くじと仰るのですから、ね、私の、ブラジルのほうには援助金がなかったことが有がたか、いわば貧乏くじですけども、有り難い、ね、それが必ず、私は宝くじになると思うんです。
ね、そういうおかげの世界にでるためにもです、このたとえば、ま、金光教の神感というでしようかね、金光教では、こういう、神様の頂き方をしているんだと、その神様は、私共のもう、中にも外にも充満してござるんだと、もう日々が神の中を分けて通るような、それが金光教でいう神様だという説明だけで頂いておくのではなくて、そういう神様を知ることから、感じる信心にならなければならないということを今日は聞いて頂いた、どうぞ。